タグ別アーカイブ: 思考

執着を捨てる

2018.08.03

抽象水彩1

休日、部屋の片づけや洗濯をしながらふと、放ったらかしだった水彩絵の具を思い出し、形のないものを描きたくなりました。

長らく触っていなかったので、小さいアルミチューブはカチコチ。

大きなポリチューブのものはセーフでした。

 

ほんの少し前まで、心を取り乱して執着してしまっていたバランスの悪い自分がいて、片方に偏りすぎてやじろべえの支点から外れてしまいそうだと気づきいたとき、水彩絵具のことを思い出したのです。

 

執着心というのは、踏ん張るときには必要なものではあるけれど、手段が目的になってしまうのとどこか似ていて、もともとある感情が何だったのか見えなくなるほどやっかいなものだとも思います。

それは愛情でも、情熱でも、熱意でも、なんでもない。

そういうとき、わたしはやっぱり、絵を描いたり物を作ることでそれらをコントロールするんだなと気づきます。

頭を空っぽにして、手を動かして、一旦、執着を手放す。

手放したときに残ったもの、それは握りしめすぎて最初のころとはすでに形が違っているかも知れないけれど、きっと本当の感情なんだと思います。

気づくまでに自分自身に翻弄されて疲弊してしまうこともあるけれど、これだから人間らしくていいんだとも思えたりします。

 

画用紙へチューブから気の向くまま絵具をのせて、あとから水と筆で描きました。

こういうのも面白い。

 

抽象水彩2

粘土制作がうまくいかないなと思って少し手を付けた水彩だけれど、やっぱり絵っていいな。

 

リニューアルのため休止のままになっていたWEB素材屋も、システムの問題が解決したら公開したいなと思っています。

自分の居る場所

2018.07.29

常備菜

ずいぶんご無沙汰しておりました。

 

今自ら置いている恵まれた環境で、どこまでできるのだろうかと考えて動く日々、日々。

新たに出会う人たちに優しさを分け与えていただいて、日々些細ながら成長を感じ、わたしはこんな人間だったか?と思うほど、とにかく仕事に精を出しています。

去年あたりから取捨選択してきて、クリアに見えてきたこと。

何をするべきなのか。

何を目標にしているのか。

ほんとに小さなことなのだけれど、1つ1つ叶えていけている途中。

 

 

去年あたりから”居場所”というキーワードが頭上を旋回していて、それはどういうことなんだろかと自問自答していました。

家族の少ない自分、子供のいない自分。

ずっと足りないと感じてきたことが鮮明になって、それを埋めるように、居場所を求めて動き出しました。

そんなこんなで心身ともに変動の大きかった7月も、もう終わろうとしています。

 

 

粘土制作はわたしにとって、自分にふと返る瞬間という感じで、今は少ししか手を付けられていないけれど、

クリアな、色も匂いも感触もすべてが実感できるものを手にできるとき、今まで以上にいいものができるかも知れないと思ったりしています。

 

料理もちょくちょく頑張ってます。

綱の上に片足で

2018.03.03

「ランドさんは自由でいいね。」

というのは、もう10数年前からの知人である80歳近くなる男性からの言葉でした。

もしかしたら、それまでの自分であれば自由なんかじゃないと思ったかも知れないけれど、そのときその言葉に納得し、不思議と肩の荷が下りたような感覚になりました。

わたしは自由だったんだ―

そして今は、なんとなくそうなってきた環境で、流れに身を任せて暮らしています。

 

それとは別に、忙しさはそれほど関係なく、制作を一旦休止しています。

バランスを取るために、ほどよい諦めも必要だな、と。

 

―諦めが不安を取り払って、綱の上に片足で立つことが怖くなくなる。―

 

例えると、そんな感じです。

もがけばもがくほど絡むのも同じ。

水面に体をあずけ、目を閉じて耳を澄ませば、必要なことは自ずと見えてくるものなのだと思うのです。

 

とにかく、わたしもコインも相変わらず元気です。

多面体

2018.01.23

すごい変化ですねと、いつも言ってくださるranbu(大阪)さんのオーナーである榎園さん。

作品は確かに変化している、し、もっと頭の中にあるイメージに近づけたいと思うのだけれど、実はまだまだ近づいていません。

またスローペースながら、今年も制作をはじめました。

 

実は、鏡を使って自分の作品を撮ることがなんとなく好きだなーと気づいたここ最近。

上の写真は、1人の人が鏡を見ているのだとわかるけれど、下の写真になると、鏡ではなく、人が2人いるように見えませんか?

向こう側の人はこちら側の人を見、こちら側の人は、わたしたちの方を見ているようにさえ見える。

錯視でもないのに、この人の右目はどこに向いているんだろう…

わたしだけの感覚かも知れないけれど、こういうのって大好きなサスペンス映画の何かみたいでワクワクします。

日頃、鏡は目の前のものを映しているだけなのに、すごく不思議なアイテムだと感じます。

お前は何を見ようとしている?何を見ている?目の前の自分を本当に見ているのか?と―

自問自答するものなのかな。

 

誰かの態度や言動が悪い意味で気になったとき、実は自分に原因があったということがあったりします。

そういうことに気づくにはまず鏡を見てみること。

相手のそういった態度などが少なからず自分にも原因があったと気づくことができれば、今度同じようなことが起きたときも、同じ対処ができる。

まずは人ではなく自分のことを知ることが大切なのだな、と。

比喩でもあるけれど、鏡を見ること・使うことは、そういう意味でもあるのだと思います。

 

気づいたときがはじまりのとき。

さてさて、今日はどんな顔をしているのかな―

シンプルな思考

2017.09.14

途中ウラマドンナと鏡

わたしはいつも、わざわざ大変な方に足を突っ込むねと、近しい人たちに言われる。

確かに、昔から全く知らない世界や、決して寄り添えるとも思えない世界に飛び込んでしまうところがある。

あるのかないのかもわからない自分の潜在能力を掘り起こそうとしているのか、何を信じてそんな風に生きてきたのかいまだにわからない。

ただ、そろそろそんな生き方はやめないといけないなと思う。

そう思っていたのに、いろんなことのタイミングが重なってまた複雑な方向へ向かってしまっていた。

 

シンプルな思考になりたい、のに。

シンプルになることってどうしてこんなに難しいんだ!!

好きなことだけをして生きていくことがシンプルということでもないし、何にもないということでもない。

幅広く点在するものをしっかりと統括し、その上余分なものを、排除するのではなく視野から外していくことが、シンプルということになるんじゃないかなと考えたりする。

そして私はいつもシンプルとは真逆のところにいる。

結局は今のところ自分の統括力がないのだ。

でも、それを知ってからは、螺旋のようにまわりまわって、最初から何もないよりもはるかに潔い自分なりの”シンプル”になるんではないかと、そういう期待だけは残して前進しようと思うのです。