粘土制作について考察してみる
2022.03.20
気付けばもう3月。
それももう後半とは、いやはややはり一月は行き、二月は逃げ、三月は去っていくものなのだと、毎年同じことを思っている気がします-
特にこの数年それが顕著で、年齢のせいもあるかも知れないなぁと。
今年はウラマドンナの制作からスタートしました。
お気づきの方もおられるかも知れませんが、わたしの制作は展示がないとほぼ始まりません。
ということで、ありがたいことに去年の企画展でお世話になった福岡のクレマチスの香さんで、6月に個展をさせていただくことになりました。
粘土制作も絵も毎回どんどん変化するので、戸惑いを覚える人も少なくないと思うのですが、その時期に吸収したものを表現に使っているのだろうと思っています。
自分のことながら、たいてい後付けになることが多いので、今のところ、そう思っているという感じです。
今まで、あまり画材や技法を聞かれることもなかったので、特にそれについて書くこともなかったのですが、去年知り合った作家さんに、新しい表現を始めたのだったらそれは書いた方がいいよと言われ、書かない理由もなかったので、今回初めて書くことにしました。
よかったら、読んでください。
写真では伝わらないかも知れないのですが、黒い点々、わかりますか?
これは、錆びさせた鉄粉を混ぜて塗っています。
色を落ち着かせるのにちょうどいいということと、もしかしたら経年変化もあるかも知れないという、その変化も楽しんで頂けたらという気持ちで使用しました。
そして、粘土そのものよりも感触がザラザラとして、これは触らないとわからない触り心地です。
あとは、胡粉を絵具に混ぜたり、ガラス用の画材を使ったり。
今までもしかしたら、作品を触ってはいけないと思われた方もいるかも知れないのですが、わたしはたくさん触ってもらって、撫でてもらって、しっくりくるウラマドンナを見つけてほしいなと思っています。
今回変わった部分はいろいろありますが、特に目の表現が変わりました。
目のお話をする前に、頭の部分をくぼませて青色にしている理由をお話しすると、記憶であったり、脳の深さであったり、器であったり- それらのイメージを漠然と海のように表しているのですが、物を入れられるのかな?とか、欠陥を表しているのかな?と思った方も多かったようです。
くぼむというより、開いているという表現の方がふさわしいかも知れません。
そう思って見てみると、全てと繋がっている、受け入れているというようにも見えやしないでしょうか。
そんなくぼみの色に目の色を近づけたので、青い目になりました。
そして、今まで作ってきたどんな小さな顔にも鼻の穴を作っています。
それは、嗅覚という、脳に直結する感覚を閉じてしまいたくないという思いからだったのかも知れません。
こんな風に常に、感覚的にこうしてみた、ということの理由を、あとあとになって気づくことが多々あります。
ようやく、少し説明ができるようになってきたかな、今はそんな気持ちでいます。
そして、昔から作っていたテキストや浮かんだ言葉を、ウラマドンナに添えることにしました。
数年前までの展示や昨年の個展では、文章も一緒に展示していましたが、読んでくださっている感覚はあまりありませんでした。
それは結局、わたしのアプローチの弱さが原因です。
「こう思ってほしい」より、「自分の中の何かに気づくキッカケになれたら」という思いの方が強かったのですが、作品の背景を知ってもらうという意味では、言葉も重要な役割を果たずはずだと気づき、添えることにしました。
長くなってしまいましたが、最後に、こちらは着色前のウラマドンナ。
着彩後のものとは別人のようです。