虹の橋から落ちてやしないか
2020.08.26
|8月22日昼すぎの写真|
「悲しいは悔しいということ」
去年の夏、わたしはこの言葉をずっと胸に抱いていました。
(継)父の突然の余命宣告。
衝撃を受けた直後は悲しさでいっぱいになったけれど、何かもっと違う感情―、それはこの事実を自分ではどうにもできないという、悔しさなのだと知りました。
今年に入ってコロナが蔓延しだしたこともあり、やりきれない、歯がゆい気持ちが常に付きまとっていた気がします。
今夏はとにかく暑くて、だからか雲の表情が豊かで楽しく、この8月22日も加西に行く途中に車から青空を撮ったりしていたけれど、母からの急な連絡で即刻神戸に戻りました。
ICUに入ると、以前より増して痩せていた父は、口に人工呼吸器をつけてベッドに横たわっていました。
「ランドが来たで」
母がそう声を掛けると、うっすら目を開けて手を上げてくれ、そのあとも、わたしが声をかけるともう1つの方の手を上げてくれたので、その手を軽く握りました。
わたしは、父の手をこのとき初めて触ったかもしれない―
そしてこの日の夕方、父はゆっくりと息を引き取りました。
70歳でした。
当日の朝も、しんどいと言いながらも家で朝食を摂れていたようで、母曰くほんとうに急変だったようです。
22年間母の連れ合いであり、最後の1年は母の夫、そしてわたしの継父にもなった父。
喧嘩しながらも、祖母、母、父(そのときはまだ母の彼)、わたしの4人でお酒を酌み交わした1つのテーブルは、そこから1人、また1人と居なくなり、とうとうわたしと母だけになってしまいました。
寂しいね-
|6月26日、父の誕生日前日の実家での宴|
もう15年以上前に母が入院したとき、不安や寂しさで、父と2人で飲みに行ったこともありました。
お酒を吞むと饒舌になる父とは、人生観について話すこともよくあり、そんなの他人に言われたくない!という思いになって言い合いになったことも少なくありませんでした。
3人で呑みながら、父を横目に母と女子トークをするのも楽しかった。
(あれ、お酒の話ばっかり💦)
何かと不器用な人だったし、わたしも器用には接していなかったかも知れないけれど、これが実の父親であっても、案外こんな感じなのかもと想像することもありました。
最初の10年ほどは、仲が悪いわけではなくてもまだまだ他人という感覚が抜けなかったけれど、7年前に祖母が亡くなったことを機に、祖母の死をわたしたちと同じように悲しんでくれ、母をちゃんと支えてくれる人なのだと実感し、その頃からようやくほんとうの家族という意識が芽生えたことを今でも覚えています。
それと同時に、母から初めて紹介されたときのあのこそばゆい感覚も覚えています。
わたしは思います、こういう積み重ねがあり、ほんとうの家族になっていくんだな、って。
それって、血が繋がっていてもいなくても同じなのかも知れないな…
|告別式の日の朝、実家のベランダから|
最後の日を思い返すと、病院のベッドの上で少しずつ血圧が下がっていく父に、母がため息交じりに泣きながら「私、また1人やん…」と言ったことが頭を離れません。
どれだけ喧嘩をしても、大好きな旅行や温泉、お笑い、映画、食事、、、楽しい時間をたくさん共有してきた2人だからこそ、というより、どちらかがまた1人になることは必然だと頭では誰もがわかっていても、底知れない寂しさが訪れます。
親との別れとは違う、長年連れ添った大切な家族との別れ。
わたしでさえこれほどに寂しいのに、母は母で向き合わなければいけない。
とにかくやるせないです。
父よ、母に怒られながらも1年と1ヶ月よく頑張った!
そして、長年母を支えてくれてありがとう。
わたしにもいろんな思い出をありがとう。
余命を倍以上伸ばして、母やわたしたちにゆっくりと覚悟を持たせてくれてありがとう。
わたしたちはもうしばらくこちらにいるけれど、また会えるのを楽しみにしています。
23年間、ほんとうにありがとう。
母とわたしの人生に関わってくれて、ありがとう。
<去年8月22日のブログ>