すきま時間の散歩
2019.10.21
うっとうしくて手で何度も払いのけていたものが、ふとそんなことをしなくていい状況になって初めて、寂しいと感じる。
そんな寂しいという感情のいくつかを一通り終えて、ふと肌に冷たい風を感じたとき、
あぁ、ヤツは行ってしまったのだと気づく。
夏は、纏わりつく”人”だった。
最近、数年ぶりに時間を作るようになって―
というのも、多分この数年のあいだ、わたしは遊ぶ時間を作ってはいけないと知らぬ間に自分を縛って、
余白を作ってこなかった…そう思います。
自分で選択してきたはずなのに、毎回問題を起こしていたのは、Noと言わなさ過ぎたことでした。
何をもって余白というのかはわたし自身もわからないけれど、
例えば旅行に行くことであったり、シフトの依頼にNoと伝えることであったり(今まで良くも悪くも全てYes!)、
なにか、必死で生活をしていかないといけない状況にある人間が選択してはいけないことが、
=(イコール)余白であったのかなと思います。
そういう余白を、今は気ままに飲みに出たり、Noと言ったり、散歩に出てみたり、と、作っている感じ。
先月購入したノートパソコンは、旅先や外出先でも自分のアイデンティティのように使えるんじゃないかとワクワクしているのだけれど、何が必要なのかと考え、ソフトやツールをいろいろとインストールし、ペンタブで絵を描きたいから画面の保護フィルムを購入し、あともう少し使いやすくカスタマイズしたら、稼働かな!と思っています。
そういえばこの10年近くいろいろあったけれど、思い至るのが、わたしが自分を捉えきれず、
自分にぶつかり、人にもぶつかり、それでもたまには素直に、そして、惑いながら取捨選択してきたこと-
それらは今でも進行(成長)中の枝葉であるけれど、中にはいい結果になったものもあれば、最悪な結果になったものもありました。
墜落しないように低空で旋回するしかなかった時期も、乗り越えてみれば、
あのときがあってこその今の自分に気づけるし、今の自分がずいぶんあのときの自分を許していることにも気づきました。
自分自身に振り回される、いっぱいいっぱいの時期もあっていいけれど、
空を見上げ、散歩するような時間を作れそうだと感じたときが、そのとき。
なんにも生み出さないような、無駄に思える空白みたいな時間が、
さらにこれからの自分に元気を与えてくれる栄養になるんじゃないかなって。
そんな風に思う最近です。
自己満足な制作もまた再開しようかな✨
季節に流される
2017.10.02
いつくるのかと思っていたら、浅い二日酔いに重なるようにして訪れた秋。
なんともポカンとして、それでいてそれまでの自分はなんだったんだというくらいの切なさを、理由なく連れてきました。
過ぎるしかないことがわかっていても、この時期特有の血の巡り、不安、焦燥感には慣れません。
夏の疲れは、体にだけ来るのではないんだなーと毎回思うのだけれど。
でも、季節と共にやっぱり毎年それは過ぎていきます。
待つしかないから。
さて、それまで何をしようかと、季節に流されながら。